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旧「鮫河橋」の名残を探す

迎賓館や東宮御所のすぐそばに、昭和初期のころまで、東京三大スラムの一つと呼ばれた貧民街があったというのは驚きだ。その落差感を体験するのも、今回の散歩の目的の一つ。ただ、今は曲がりくねった細い路地に、かすかに地形的な記憶を残すのみだった。

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花の名前をよく知らない。散歩人としては失格だ

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四谷と信濃町駅の間にある「御所トンネル」

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小さな祠に「鮫ケ橋せきとめ神」とある。低地ゆえにかつては川の氾濫に見舞われたのだろう。祠は可愛いらしいレリーフのついた木の杭で守られていた

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中央線の高架下

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サボテンのうっそうとした大木に囲まれた住宅を発見

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細く曲がりくねった路地は昔のままだろうが、今はスラムの面影はない。住宅の洗濯竿にはこんなあしらいも。

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つつましい生活ながらも、家の前には花木を欠かさない

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ミニチュアのような祠。何を祀るのか

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路地裏をしずしずと進む探検隊

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このセンスには笑えます

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あるお宅の庭にかかっていた不思議な布のオブジェ

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住所が「若葉」だからかな。レトロを感じます

「鮫河橋」とは

「いたる所、軒低く、壁壊れ」──東京のスラム

 現代日本にも貧富の差はあるが、かつてはもっとひどかった。高台に金持ち、低地や湿地帯に貧乏人と住む場所にさえ歴然とした格差があった。今は若葉二丁目、三丁目あたりの谷地に、明治初期から昭和初期のころまで、スラム(貧民窟)があったという。

 旧地名を「鮫河橋谷町(さめがばしたにまち)」といい、文字通り四谷と赤坂の台地にはさまれた深い谷底の街だった。

 詳細は下記リンクを参考していただきたいが、そのスラムの様子を明治末期の文献は、

「全町ことごとくこれ貧民窟。谷町を中心としておよそ卑湿の地、いたる所、軒低く、壁壊れ、数千の貧民、蠢々如としてひそかに雨露をしのぐのさま、哀れなり」

 と記しているという。

貧民窟より銅像がいやだ──永井荷風の都市感性

『日和下駄』でこの街の様子に触れたのは、永井荷風。それによれば、明治45年ごろ東京に万国博覧会を招致するという話が出たとき、このスラムを一層する計画も同時に持ち上がったらしい。「電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を見下しでもすると国家の恥辱になる」という理由からだ。

 今も昔も、お上が唱える都市再開発の理由は基本的に変わらない。結局、万博計画は沙汰止みになり、その後しばらくはスラムもそのまま取り残されることになった。

 荷風はそのときこう書いている。

「貧民窟は元より都会の美観を増すものではない。しかし万国博覧会を見物に来る西洋人に見られたからとて何もそれほどに気まりを悪るがるには及ぶまい。……東京なる都市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら貧民窟の取払いよりもまず市中諸処に立つ銅像の取除を急ぐが至当であろう」

 陋巷とモダン──都市のもつ二面性を理解し、その二つの顔をこよなく愛した荷風ならではの叙述といえる。

鮫河橋に関するサイトLinkIcon

若葉二丁目あたり
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