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断崖の要塞都市

P1020105.jpg 4月26日、日曜日。ナポリ3日目は、ホテルの部屋をそのままにして、アマルフィ海岸に向かった。アマルフィ(Amalfi)は、ティレニア海にせり出す切り立った断崖と渓谷の限られた土地に、その斜面を有効に活かしながら、高密度に築き上げられた迷宮都市だ。その中世都市国家の風景が、世界遺産に指定されてから日本でも次第に知られるようになった。

 私も最近、テレビの海外紀行番組で初めて知った街だ。さらに、陣内秀信氏(法政大教授)の著書『イタリア海洋都市の精神』(講談社 興亡の世界史シリーズ)などを読んであらためてこの街の特殊性に思いを馳せることになった。

 西洋で初めて羅針盤を発明し、10世紀にはピサやジェノヴァ、ヴェネツィアと並ぶ海洋国として栄え、12世紀以降は製紙業も発展した。今から考えれば、なんでこんな切り立つ崖の上に街を形成したのか。老人には辛いほどの急峻で、うねうねと曲がりくねった階段の上に、なぜ人々は暮らさなければならなかったのか。まったくもって不思議ではあるのだが、こうした街の迷路構造には防御上の観点もあるのだという。

 5〜7世紀にこのあたりの都市国家が対峙したのはゲルマン系の異民族だったが、彼らは船を操縦する技術をもたなかった。背後を断崖で守られたアマルフィは、まさに天然の要塞だったのだ。

 名前の似ている、ポルトガル・リスボンのアルファマ地区(Alfama)も、そういえば外敵からの防御のために、あえて迷路を張り巡らせた街だ。アラブ・イスラームの都市づくりの影響という点でも、アマルフィとアルファマにはいくばくかの共通点があるように思える。それに加えて、アマルフィには、ビザンツや中世の地中海で覇を唱えたノルマン文化の影響も色濃く残っている。

 こうした過去の貿易国家としての栄華、複雑な文化流入の過程、高低差のある街づくり、そしてなにより、つづら折りの坂道を上り下りするたびに広がるダイナミックな景観が、強く観光客を惹きつける。

 いずれにしても、今回の南イタリア旅行では、アマルフィ訪問はシチリアと共に重要なポイントである。

 アマルフィは街の名前だが、同時にソレント半島の南側一帯の海岸の名称でもある。アマルフィ海岸に近づくには、船がいいと聞いていた。ナポリからは4月〜10月の観光シーズンには、日2便ほどMetro del Mare(海の地下鉄)と呼ばれるボートが出ている。ナポリのベヴェレッロ港から途中、ソレント、ポジターノなどの港に立ち寄って、アマルフィまでは2時間ほどの船旅である。

icon_bl_02.pngアマルフィ海岸
Amalfitana イタリア南部、ソレント半島南岸のソレントからサレルノまでの約30キロメートルにおよぶ海岸。複雑な海岸線、垂直に海に落ち込む断崖で知られる。ノルマン様式の大聖堂と鐘楼が残る天然の良港アマルフィ、高級リゾート地ポジターノなどの小さな町が海岸線に点在する。1997年、世界遺産(文化遺産)に登録された。(小学館 デジタル大辞泉)

帰れ、ソレントへ?

 Metro del Mare での船旅は途中までは順調だった。ソレント半島北岸を伝うようにして、ソレント港に寄港したまではいいが、港を出ようというときになぜかボートは停まってしまった。どうやらエンジントラブルらしい。いったんソレント港に戻るというアナウンスが聞き取れた。ナポリのカンツォーネに「帰れソレントへ」というのがあるが、まさにその通りになってしまった。この航路は実は3日前に今シーズンの運航を始めたばかり。きっと、まだエンジンが本調子ではなかったのだろう。

 ともあれ、ソレント港に戻ると別の船が用意してあって、すぐに乗り換えることができた。気を取り直していざアマルフィへである。「青の洞窟」で有名なカプリ島(今回はパス)を見やりながら、船は結構なスピードでアマルフィ海岸沿いを快走する。残念ながら曇り空だが、断崖にへばりつくようにして立ち上がる、美しい街並みが見えてきた。







amalfimap2.jpgP1020035.JPGMetro del Mare。アマルフィまで15ユーロ。 快適な船の旅になるはずだったが……P1020051.jpg向こうに見ゆるがカプリ島(たぶん)P1020104.jpg日本の松林みたいな散歩道P1020171.jpg入江の風景もたいそう叙情的だ。しかし、アマルフィがかつてビザンツ帝国やシチリア王国からも大量の受注を受けて栄えた造船大国であったことが、にわかに信じがたいほどのこぢんまりとしたものである

積層都市の空間プログラム

P1020128.jpg階段がけっこうきついんだわアマルフィの旧市街は小さく、住宅は密集している。建物の間には狭い路地があるだけでなく、その路地自体が階段状になっていて、幾重にも折り重なる上層の街区へと続いているのだ。陣内氏はその機構を「積層都市の空間プログラム」と呼び、「まるで魔法にかけられたような、複雑に組み立てられた不思議な都市空間」と評している。

 私たちはそれほど高所にまで登ったわけではないが、それでも白壁の細い階段と通路がうねうねと張り巡らされている「プログラム」の一部を、あてどもなく彷徨った。そこには暗いトンネルがあったり、角にキリスト教の小さな祠のようなものがあったりする。

 トンネル・ヴォールトの上にさらに住宅が構築されていたり、住宅かと思うとレストランだったり、人がすれ違うのもやっとだったりと、まるで胎内巡りのような回遊体験はなかなか得がたいものがあった。



ドゥオモ広場とその周辺

Amalfi Duomo.jpg

エキゾチックな鐘楼の音に目覚める

 さて、街の中心は他のヨーロッパの古い都市と同様、教会と広場だ。しかし、アマルフィのドゥオモ(大聖堂)と鐘楼の装飾、その前の広場の佇まいは、他の欧州諸都市の風景とははなはだ異なる。ドゥオモはエキゾチックなイスラーム様式。鐘楼もまた、ロマネスクながらアラブ・イスラームの影響を強く受けているという。幸いにも私たちのホテル Hotel Fontana はこのドゥオモ広場に面してあり、部屋の窓から始終、広場の賑わいを楽しむことができた。鐘楼の音が大きくて、朝早くに起こされるのには閉口したけれど……。

P1020177.jpg鐘楼。1180年ごろから建設が始まったP1020176.JPGドゥオモのファサードにはキリストの物語がモザイクで描かれる

 昼は金色に、夜にはライトアップされて紫色に輝くドゥオモのファサードには、キリストと十二使徒の姿がモザイクによって描かれている。ところが、それを支えるアーチはイスラーム文様というわけだ。鐘楼の頭頂部にも同様の文様がみられ、それらはナポリ、シチリア島でもよく見かけたマヨルカ焼のタイルで飾られている。

 ただ、ドゥオモのファサードが現状の姿になったのは、19世紀後半のこと。「地震で大きく亀裂が入り、その修復の際に、部分的に残っていたイスラーム様式の装飾を手掛かりに再構成された近代の産物なのである」(陣内・前掲書)。

「なあ〜んだ」と少しがっかりするが、それでも教会周辺の文化的価値が減じるものではない。異なる宗教や文化のミックスが、文化財に優れた価値を与えることを、19世紀後半の人もよく知っていたということなのだから。

 ドゥオモ前の広場の階段もたいそう立派なものだが、これもまた18世紀に付加されたものだ。中世の景観がそのまま残っているわけではない。さらに言えば、観光客で賑わうドゥオモ広場には、中世の前半には川が流れていたという。13世紀後半に、衛生上の理由と都市開発のため、暗渠となった。景観に少しずつ手を入れながらも、その本質的な価値を残すという意味で、文化財と都市発展の融合にかかわる貴重な経験が、この街には堆積している。

グランドツアーによって見いだされた歴史

 こうした、中世建築をリノベーションする動機の一つとなったのが、18世紀以降、西欧の裕福な階級の間で流行った「グランドツアー」だった。ローマ、ポンペイなどの古代遺跡の発掘が刺激になり、古代文明に対する関心が高まって、アルプス以北から次々に観光客が南イタリアを訪れるようになる。当時はアテネまで足を延ばすのは大変だったからこそ、「南イタリアに受け継がれた古代ギリシアの神殿建築や劇場、都市の遺構がおおいに人々を触発したのである」(陣内・前掲書)。

 グランドツアーの客足が、ナポリ以南、アマルフィまで達するのは19世紀初めのころらしいが、そこで出会ったイスラームやビザンツのエキゾチックな文化は、彼らを驚かせた。逆にいえば、それを受容するツーリズムの精神が芽生えていたということだろう。それに照応するかのように、アマルフィの人々は自らの文化的アイデンティティを強く意識するようになり、中世の歴史を資源とした「観光立県」をめざすようになったのである。

P1020116.jpgP1020112.jpgP1020122.JPGP1020114.JPGP1020109.JPGP1020108.jpgP1020118.jpgP1020123.JPGP1020157.jpgP1020155.jpg

P1020134.JPG水車の力で回す古いローラー装置
P1020138.jpgプレス装置

昔を伝える「手すき紙博物館」

 ドゥオモ広場の通りを丘のほうに向かって20分ほど登ると、「手すき紙博物館」(Amalfi Paper Mill and Museum、 Museo della Carta)というのがあった。13世紀以降(12世紀という説も)、アマルフィのムリーニ渓谷で栄えた製紙業の工場を復元し、古い機械や装置を使って紙すきの工程を再現しているのだ。

 そこで漉かれた紙を使ったノートや文具類はショップで販売もされている(お土産に最適だが、けっこう高かったりする)。あらかじめ用途に応じた型を使って製作するため、四辺を裁断しないのがアマルフィ紙の特徴。その手触りは、今となっては素朴で優しい。

 なぜ中世にアマルフィに製紙業が起こったかといえば、その背景には海洋貿易上の必要性ということが挙げられる。たくさんの貿易書類が必要とされたため、当時アラビアにあった製紙技術を、エジプト経由で導入したようだ。この地を流れる渓谷の水という動力源も産業が興る理由の一つだった。

 17〜18世紀、製紙業はパスタ製造とともにこの地の産業基盤を支え、アマルフィの高密度な積層建築が発展する礎にもなった。

 しかし家内制手工業の製紙工業は、近代以降、大規模な産業には発展できなかった。20世紀になっても伝統産業として細々と受け継がれてはいたものの、1954年の大洪水でほとんどの水車が失われ、完全に衰退した。この博物館は、代々伝統的な紙すき手法を伝える家系が、いわば産業観光のために工房を復興させたものだ。

 ……てなことを、説明役の若い青年が喋るのだが、実はイタリアなまりの早口の英語で3分の1も理解できなかった(笑)。ただ、こうした古い産業遺産の復興・保存に若者たちがかかわっているというのは、なかなか感心する姿ではあった。

icon_bl_02.png アマルフィのホテル Hotel Fontana P1020168.jpg窓いっぱいに教会の鐘楼が
船着き場から徒歩3分。アマルフィ港とドゥオモ広場
の両方に面する。私たちの部屋は広場側だった。
観光至便。130/ツイン。

Camera.pngこんな写真もあるよ

アマルフィの表情

P1020161.JPGP1020181.JPGP1020156.jpgP1020170.JPGP1020097.JPGP1020133.JPG

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